喝采のブーケで見送りたい

ま、世間的に♡な日と言うことで。ミニトマトのパックがハートでした。


雪国の民には冬限定スポーツの祭典ってだけで親近感♪な冬季五輪。にわかファンになって早12年(つまり万年にわか 笑)のフィギュアスケート、スキージャンプ、アルペン、モーグル、今年はスノボも観戦しています。しかし、オリンピックには魔物が棲むとかよく言いますけど、ちょっと荒れ過ぎじゃありませんか。

おそロシア…(((;゚Д゚)))とか言いたくもなるわよっ。

あえてのハイテンションで書き切りたい男子フィギュア・ショート鑑賞後です。だってもう朝から目頭熱すぎて。まさか、プルシェンコが演技を始めることなくリンクを後にする姿を見ることになるなんて。

昨日から一切飛んでいなかったというジャンプ(練習)で転倒。一瞬だけ顔を歪め、それから何度も腰を押さえていたプルシェンコ。リンクに立っている間は、ただ流して滑っていても「皇帝」のオーラは健在でしたが顔は痛みのためか真っ赤で、俯いた表情からもすでに演技ができる状態じゃないのでは…と素人目に案じておりましたが…。

にわかなので、バンクーバーの後は引退してアイスショーに出ていることや結婚・離婚(現在は再婚されて1児のパパ)くらいの情報しか知らず、選手としてどういうコンディションで今回の復活に至ったかを知りませんでした。というより、知らずに観て、知りたかった。あの誇り高い、圧倒的な技術と表現力を兼ね備えた「皇帝」が、選手としてのピーク(審査競技の年齢的に)を越えてなお復活するのだから、並大抵のことじゃないぞ!と、これまでを見ていればたやすく信じられたから。

団体戦の時、ロシアの男子シングル枠はプルシェンコ一人なのでショートもフリーも滑りましたね。ショートはややぎこちなさがあったけれど、フリーは「ベスト・オブ・プルシェンコ」と銘打ったのにふさわしい円熟味とさすがとしか言いようのない貫録に溜め息が出ました。ああ、プルシェンコだ!本当に帰ってきたんだ!と。それで1位の得点を叩きだしてロシアに初の団体種目で金メダルをもたらした。すごい役目を負って、見事に果たしたんですね。

今日の棄権があってから、彼の復活までの道のりを知りました。

想像以上の満身創痍でした。度重なる怪我と手術。リハビリのため3シーズンもの休養を要したこと。鼠径ヘルニア手術後は自慢のビールマンスピンを封印していたこと、半月板は長年の治療の末に切除。潰れた腰椎の椎間板の代わりに人工椎間板を入れる手術はたった一年前です。「背骨にボルトが3本も入っていてジャンプするなんて普通なら氷の上を真っ直ぐに滑ることだって無理だ。でも彼はジャンプするんだ」とはコーチ談。…書いてるだけでちょっともう。

どんな種目でも、オリンピックに出る程の高みで戦い続けた選手なら故障は承知の上かもしれない。そしてどんな苦悩や挫折も競技自体や観客側には関わらない。だけど、それがまるで聞こえないはずの音のようにすうっと透けて伝わってしまうことがある。様々なことを知ってから観る彼の演技というのは、神がかり的な技術よりも、もっと深くから湧き出る人間としての表現、命を燃やし尽くすような魂を捧げるような、祈りの体現にも見えてきます。神経を焼いたり、痛み止めを使い続けても離れない痛みの中で、彼が目指したものは彼にしかわからないけれど。

どんな不運に見えるかたちで選手としての時間が終わったとしても、彼の人生は続く。だから、彼の演技がもうオリンピックでは観られないとわかった時は衝撃だったけれど「神様が『もう終わりにすべきだ。こんな試練もう十分だ』と告げた。けがでしか僕を止められなかったのかもしれない」というコメントを聞いて、この人が背負ってきたものの大きさを改めて感じました。これまでの日常生活が送れないような身体になる前に自分への気づきだと受け止められるなら、ファンも納得します。でも、あの自分に失望した表情とリンクを去る背中はつらかった。謝罪のコメントもあり、自国での五輪開催、長年多くの選手が憧れる王者であり続けた彼が、今ここに戻るまでに背負った重さを思って泣いた。

今回メダルを賭け対戦するはずだった羽生選手がプルシェンコに憧れてきたことをインタビューでふられ、「私は彼のヒーローだったかもしれないが 今は彼が私のヒーローになっている」と答えるのを観てまた泣きました。どれほどの人が思い出すだろう。ソルトレイクで初めてオリンピックの舞台に立ったプルシェンコが、今の羽生くんと同じ19才だったことを。純粋に、より高度で美しいフィギュアを追い求め、磨かれていく人を賞賛し、惜しまず背中を押してくれる器も大きな人です。一時、みんな成功率の低い4回転より確実な3回転しかやらなくなった時も失敗を恐れずに飛び続ける大ちゃんを褒めていましたね。日本にショーで来た時には真央ちゃんとこんなことも。

あなた、チョットダケじゃないから( 艸`*)本当にこの子は!!(笑)多くの人を惹きつける魅力、茶目っ気、愛される憎めなさ。

真央ちゃんもきっと多くのものを得たのではないでしょうか。

気迫のこもった演技にも惹かれますが、エンターテイナーでもありました。

肉襦袢を着てマッチョ演技をしたり、

女装して1人2役やってのけたり。

時にピエロのようにおどけてコミカルに、熱くドラマチックに、クールな文字通り氷の皇帝に。スケーターとしてだけでない魅力がありました。

国を代表して出場した舞台を自ら降りることは、どんな怪我よりもリハビリよりも苦しかったに違いありません。今は何よりも身体の回復に専念して、ゆっくりこれからも続く長い人生を選んでほしいと思います。いつかまたどこかで、あんなにぴょんぴょん飛ばなくてもいい、プルシェンコらしい演技と笑顔に出逢えることを願っています。

ショート全体の感想を書くつもりが、今日は一日プルシェンコのことしか考えられませんでした^^;もちろん日本の全選手応援してます!でもフィギュアって、素晴らしい演技、美しいものには無条件で賞賛を送り合う競技全体の雰囲気が好きです。ロシア国民じゃないから言えることかもしれないけれど、プル様に失望なんかしないよ。

ありがとう、プルシェンコ。

再生できないかもしれないのに買った輸入盤のトリノ五輪DVDも今回の団体戦も永久保存版です。エキシビジョンのように、拍手喝采の中に立たせて見送ってあげたい!!たくさんの魂を震わせす感動をありがとう!これからのあなたの人生に祝福のブーケを。

拍手のレスは続きに書かせていただきます。                     

                             

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思い込みメガネ


北の都はサングラスが欲しいほど、輝くばかりに銀世界。
どこもかしこも真っ白。
朝と夜はマイナス二桁、晴れた日中でも-7,8℃という雪の祭典にはもってこいの寒い日々が続いています。家族の健康と平和のため暖房と加湿をフル回転しても、窓辺から忍び寄る冷気たるや…!ここはスケートリンクか雪の女王の城なのかと。余程でなければ好んでは着ないフリースやズボン下などを活用し、じっと耐えて、春に向かうお日さまを頼りに。

普段雪が降らない地域にお住いの皆さま、慣れない雪に生活のペースを乱され大変なこととお見舞い申し上げます
まずは、転ばぬよう…に力を入れて歩くよりも、実は地面を擦るように滑らせながらスススと歩く方が凍った道の上では滑りにくいです。お試しあれ。
でも元から溝のない靴底だとそれも厳しいので、こんな雪の日はおしゃれは二の次で、長靴とか底面に溝のあるスニーカーなどでお出かけくださいね。雪で滑るというより解けた水で滑るので、駅や屋内に入った瞬間も油断は禁物です。

昨夜から記録的な雪になる見込みと大々的に言われていて、実際に降ってしまった今日どんな報道をされているかはだいたい想像がつきます。今はテレビのように一方的な情報だけでなく、相互で発信しうるネットがあるので、雪国vs雪のない地域に住まう人々の呟きが雪合戦のように繰り広げられますね(笑)
たしかに、今回のような本格的な雪でなくとも、雪が3cmでも積もれば「大雪」と過剰なリアクションと演出(あえて帽子かぶらず髪に雪を積もらす等)でリポートされるのを見ると苦笑するしかありませんが、こればかりは比べても、ねえ?
詮無きことって言葉がありますが、本当に詮無いことです。
なのに比べっこするのがみんな好きだなぁと感じ、あ、もしかしなくても自分も?と思い至ったことについて。

雪が降ることが前提ではない街に雪が1cmでも積もってしまうと、それは「想定外」の「あってはならない」事件です。
でも、毎年何m単位で積もることが「当たり前」の地域から見れば、そんな騒ぎは大袈裟で、冗談みたいに思えるでしょう。
私も以前ニュースで店先の雪をちりとりで取ってる姿を目撃したときは「ちょ、それはないんじゃない!?」とツッコんでしまいましたが、東京に3年近く赴任して帰ってきたばかりの家族は「しょうがないんだって。(雪かき用の)スコップとかこっちみたいに売ってないんだから」。
なるほど、「降らないのが日常」なのだから、売れないものをホームセンターだってスーパーだって当たり前には扱わないわけです。こちらでは店先に何十種類ものカラフルなスコップ(かたちや用途が違う)が売られているのが冬の風物詩です。それが私の「当たり前」でした。
電車や道路だって、雪が積もっても、雪をかいたり除雪した雪の山をどうするかまで考えられてはいないでしょう。それは、準備の体勢と経験値の違いです。
だから「雪で大変」と言っても、そういう準備や心構えが行政レベルでも個人でも出来ていない地域の人と、雪に慣れた地域の人とでは大きく差があって当たり前。
でも「大変だ」ってことは、どちらも変わりないんですよね。
そこを「こっちは屋根まで雪で埋まりそうなのに」とか「プラス気温で寒いとか言うな」って話を、同じ環境で踏ん張る者同士で言うのは笑い話になるんだけど、環境も心構えも違う人にぶつけちゃうと「そういう問題じゃない!」ってなるし、「そんなら都会のラッシュ体験しやがれ」みたいな砂かけ論が始まっちゃう。とことん話し合って文化や生活環境の違いまで比較して認め合おうくらいの意気込みがないなら、言うだけ野暮って気もします。

雪って写真に撮るとどんなに吹雪いていても伝わらないな〜と撮るたび思っていたのですけど、「どんな(すごい雪)の見せたって、実際来てみなきゃ伝わらないんだって」とは家族の言う。
そんなものかもしないな、と納得したのは、いつか書こうと考えていた東京滞在中に感じたことと合致したから。
旅行のいいとこどりだけじゃなく、アパート暮らしで何度か長めに滞在して、身を持って感じた都会の魅力と大変さと通じるなって。
今、比較的ネットで何でも手に入りやすい時代になったとはいえ、魅力的なお芝居やイベント、期間限定ショップなど何かあるごとに「ああ!そこに居られたら!!」と思ってしまうのが東京という街。特に北海道からだと地続きでサッと行く感覚ではありませんので、新幹線で日帰り(たとえ強行軍だとしても)出来る人たちはいいなと単純に思うことも多々ありました。
でも、やっぱり、いいことづくめってわけには行かないんですね。
まず、人の波。どこへ行くにも人・人・人。ラッシュは当然避けても、それでもどっから湧いたと目を疑うほどの人の数。さすが首都です、大東京ォォ!と慄きながら気合を入れて溺れないよう必死に泳ぐ。ものすごい体力・気力を使います。
そして、何をするにも、どこもかしこも並ぶ。トイレはもとより、普通に食事するにも列をなしている。あんないっぱいお店あるのに!
もちろん穴場はあるのでしょうが、その場所の通でない場合は入れる場所を探し回るしかない。美味しいかどうかより、入れるかどうかなのね。衝撃でした。土日の動物園や博物館は人の頭を観に行く状態だし、イベントのみならず物販で何時間も並ぶとか、そもそも物販が抽選だとか、他にも田舎者が度肝を抜かれたことはキリがないので割愛しますが、一年目、二年目に遊びに行った時は高揚感も相まって「それすら東京って感じ♪」くらいに楽しめましたが、去年はどの時間帯でもほぼ座れない電車、信じがたいマナーの人(人が多いということは良い人も変な人も多いのかもしれない)に押されて乗り続け、めまいがしそうな人の波と絶え間ない騒音に酔い、疲れ果てました。
思わず滅びの呪文を心で唱えそうになったと話したら、家族には「そういう人は東京に住んじゃいけないんだよ」と慰められ諭される始末。こんな私じゃ東京に居ても思うほど動き回れないに違いない。たまに行くから充電切れるまでフルパワーで動くけれど。自分の経済状況を考えたら「行けるけど、行けない」方が諦めがたいかもしれないとも。
つくづく誘惑も楽しみもストレスも人が集まるゆえ、という大都会に何年も暮らし働き続けている人は、きっと心がしなやかなのだなぁと感心しました。
都会には都会仕様に鍛えられた心や身体があるのだと。
一方で、豪雪や長く厳しい冬の寒さ、地方の更に地方に住む不便さを賄う知恵や蓄えがある田舎住まいの人もまた、都会とは違う心と身体の筋肉を持っているんですね。必要な分だけ、ちゃんと身に付く。
どちらにしても、そこで生き、在り続けることの悦びや苦労がある。
これって場所に限らない話で、どっちが大変なんて言いだしたらきりがない。
楽なことだけしてる人や場所なんて、どこにもないのに。
選んだとまで言わなくても好きで住んでいる場所、偶然住みついたけど愛着のある場所。それぞれ、良さと少しの不便と抱き合わせ。
慣れたら何でも「当たり前」に感じるくせをなくして、思い込みのメガネをはずしたら、「無い」ことを探すより「在る」ものを素直に見つめられる目が冴えてくるのかもしれない。

とはいえ、いつも大変な最中に居るのは大変です(笑)
なるべく平常通りの週明けとなりますよう、北国の威勢が良すぎる冬将軍も少しは怠けてくれますように〜。
お付き合いと拍手、いつもありがとうございます。レスは続きから♪

                            
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特化したもの

先日久しぶりにフィギュアスケートを観て、ふと浮かんできたことから。
自分の限界まで練習を重ねて来たであろう選手たちが難易度の高い技を競い合いしのぎを削る姿は、いつ観ても圧倒されます。と同時に、その難しさの何たるかさえ何も知らない自分まで一緒に滑っているような、手に汗握る気持ちになります。
そんな中、まるでプレッシャーや怪我など身体の制約、重力からさえ自由になって、解き放たれたような表情で滑走している選手がいるとハッとさせられます。
何人もの転倒やミスが続くと会場の空気が重くなっていくのを画面越しにも感じますが、そういう選手が出てくると一瞬でその圧倒的な存在感がそれまでの空気を払拭していき、ただただ惹きつけられてしまう。それはいつも決まった人とは限らなくて、その瞬間にしか見られない息を呑むような美しい氷の上に咲く華だ。
そこで気づく。
さっきまでは、みんなが苦戦してもがく姿こそ高みと感じられたのに、のしかかるすべてのものを超越し悦びすら感じられるこの晴れ晴れとした演技こそ、誰もが辿り着きたい頂だったのだと思い出すのです。
フィギュアスケートに限らずシンクロナイズドスイミング、あとバレエや日舞、歌舞伎なんかも観ているとひたすら美しくて感動的なのに、その動き一つ一つに目をこらせば、たちまち窒息しそうな気持ちをなるものです。苦しくないはずがない、厳しく削られ作りこまれた究極のかたち。けれども私たちが観る表面にはその苦しみの痕跡は見えず、まさに水面下で足掻く白鳥のよう。
そういうことを、そこへ至るまでの険しい道のりがもう霞んで見えないほど高みまで登って行った人の背中を目の当たりにして初めて、気づかされるのです。

苦しみの先にある光とそこに立つ人の強さについて、まるで親しい友達のように、ずっと考え続けてきました。
勝敗の行方はいつも誰かとの勝負を意識させるけれど、本当に戦っているのは自分の心の中で、すでに多くはそこで決まっているのかもしれない。
どうやったら、あんな風に身体が動くのだろう。
どれほどの時間を捧げてきたのだろう。
何度も何度も転んでも、そこに立ち続けようと思い続けるには、一体どれほどの覚悟をしたのだろう。
どんなことにも覚悟は必要だけれど、それをアスリートの人たちは肉体を使って見せてくれるからわかりやすくて、余計に胸が熱くなる。彼らは氷の上で華麗に舞いながら「魅せる」「伝える」プロだ。

プロの真似というのはどの職種でもそう出来ることじゃないけれど(単純に見えることも実際やってみると奥が深いのは世の常)、逆に言えばみんな何かのプロであったりもするんだなぁ。そんな風に思ってハッとする。みんな、なにかを特化してきた。生きるために覚えた構えのようなものがあるはず。
同じことを何年も惰性で繰り返す人も居るかもしれないけれど、ちゃんと覚えよう、これをものにしようと腹を据えて十年も続ければ、何かの役には立つくらいにはなれると思っていたりします。
奥さんでも、お母さんでも、何かの先生(サークル的なものでもね)でも。
趣味で楽しむこともキャリアも、好き!の強さや才能、もしくは向き不向きより、続けることでしか作られない確かさがあるように思います。
以前お会いした若いピアニストさんは、毎日最低8時間弾かないと指が3日前に戻ると言っていました。好きな曲を好きなように弾けるなんていいなぁ〜なんて思う程度の素人発想とは違いすぎる、その白い指先に広がる壮絶な領域を垣間見た気がして鳥肌が立ったものです。
頭は使うほど回転が良くなると言うけれど、身体も鍛えるほどに能力は上がるのでしょう。体力のピークは若さにあるとはいえ、年を重ねても「今の自分なり」のベストを目指して頑張っている人たちの話を聞くたび何か励まされる気がしますし、こと向き合う気持ちの強さや経験から生まれる勘のような目に見えないものには、むしろ多くの時間を自分の中に積み重ねてきた経験でしかない生まれない心強さを感じます。

高みの話は出来ないけれど、同じ畑で違う作物を育てるような(同じようで必要知識が全く違う)仕事をしてきて思うのは、人は必要な力を特化して生きていくんだなということ。
仕事っていうと、どうも捉え方が広すぎるしスタンスも人によってずいぶん異なると思うので、「何をして生きていくか」のお話。
生業(なりわい)として、自分と社会を繋げること。人生とどう向き合っていくかは、つまるところ時代がどうとか条件がどうとかの問題じゃなくてサバイバル能力にかかってるようなところも大きい気がする。いや、そんなハングリーでワイルドな社会に生きてないし、という人もいるのでしょうが、意識せずとも生きて行かれてるなら十分サバイブ出来ているような気がします。「私は生きていける」という確信があるということ。
若い頃、私にはそれがなかったので、いったい何を、どうすれば自分が生きる分だけは働いて食べていけるのかわからなかった。私は朝起きて3度食事をして決まった時間に学校へ行く、というような普通は息するように出来るべきことがあまり上手に出来ない困ったところがあったので(たぶん傍目にはごく真面目な生徒でしたが)それが出来てもっと当たり前になる社会の中で、長い長い時間を真っ当に過ごしてやっていけるのか、まるで想像もつきませんでした。世間知らずなりに将来像を考えたりもけれど、知る世界が狭いのだから現実が劇的に大きく動きようもない。じたばたと同じ場所を這いずり回るように、小さな自分だけのちっぽけな世界の中で、どこか遠く遥か宇宙の果てには光る星があるのだけは感じながら、焦がれるだけの日々。
時間は刻々と進み、親元で暮らしリスクもなくすべてが曖昧なまま過ごしていい時間から、人生の岐路はあっという間にやってきました。そのこわさ。その頃ぼんやりとしか目を開けずに映る世界を見ていた私には、同じようにぼんやりとした景色しか入ってこないのでした。見えないものは無駄におそろしげに不安定にみえるもの。わけもなく不安だったのは見えない、また見ようとする覚悟の足りなさでもあったのですが。年を重ねていく自分の姿が欠片も見えないまま、こんな自分はきっと長くは生きられないのではなどと他人事のように思っていた、自分のエンジンのかけ方も知らないような思えば青い春でした。その先の話は時間の無駄なので途中経過は省略しますが(笑)

いろいろ欠けた私が仕事を得られたのは奇跡と言えると今でも思う。
もちろん「私はダメなんで〜」とか腐ってないで努力は最大限しましたよ(笑)でもやっぱ奇跡。運もある。
杉田さんが声優さんになったきっかけとして話されていた「友達に物真似や声を使った作品がウケたから、これでやれると思いますか?と聞いてみたらいけるんじゃないかと」いうお話。自分もこれに近かった。OLや公務員など真っ当な勤めは絶対無理という確信のもと(もうここでクズっぷりに心折れそうだけど折れて終われるものじゃないので)ぐるぐる考えた結果じゃあこ何が出来るのだろう?そこに多くの選択肢はなかった。だから、プロに通用すると自信があったわけじゃないけど少しでも可能性があるのはそれしかない、そこに賭けるしか私が生きる道はなかった。
はたして憧れていた場所の、けれども微妙にズレた部署で何とか職を得た下りは、さながら「モンスターズユニバーシティ」のマイク状態である。その後も己の未熟さと成長の遅さゆえ七転八倒し、何とか首の皮一枚でつながり、部署(じゃないけど)を変えつつも細〜く思ったより長く働くことが出来たおかげで今がある。
今まったく違う業種なのだけど、よく「前やってたから大丈夫でしょ」と言われる。電柱に登ってた人なら家のテレビ直せると思われてる感じによく似てる気がする(そうでもない?)どっちでもいいのだけど、振り返ればいろんなことを学ばせてもらって来てるなぁって。
最初は、とにかく自分で主張すること。覚えてもらうこと。状況を伝えること。体験を表現すること。話を引き出すこと。それから、相手に合わせること。そうしつつ自分なりのアピールも欠かさないこと。無駄な言葉はひとつもないこと。同じパターンをいかに新鮮に気持ちを保ち、そう見せられるかの攻防。立場が変わり、推し出す力。情報の整理。引きつけて放さないパワー。新たな試み、重ねて生み出す言葉の力。会話は呼吸。原稿を用意せず頭に入れて伝える手応え。真剣勝負の心地よさ。そして今は真逆に、限られた中でも聞いて書いて丁寧に伝えること。どれも自分が特化してきた、履歴書の資格欄には何一つ書けないのが残念だけども(笑)、消えない確かな経験値になっている。やっと若かった自分に言えることが一つだけあるとしたら、誰かに言って安心するような肩書きよりも、自分が「ここに立っていられる」と思えることが出来たら強いよということだけ。
どんな仕事も、人にも、自分の心ひとつで向き合わなきゃいけない場面が少なからずある。仕事に限らず、誰かと向き合うこともそう。もう無理!って逃げ出すことも出来るのに、ガクガク笑う膝でブルブルする両手で流した冷や汗は、ちゃんと今日の自分を作ってる。

長くフリー働く先輩がこう言っていたのが忘れられない。「この仕事は長縄跳びと一緒。入ったら飛ぶしかない」。一度は違う道を選び、再び同じ場所に戻ってくる人もこの心境なのかなと思う。そういうのも無駄だと思えなくて、回り道も必要な道だったんだと自分を省みてもそう思う。
何を特化して生きるのか、何を選んでも楽ばかりじゃない。
やりたい仕事と出来る仕事、求められる仕事は違うことが多い。それでも、これを選んだら私は失敗しても後悔しない、というかやって後悔するならこれがいい!って思うくらい夢中になれたら本望だ。
すべてをこわがっていた、でも本当のこわさも世界の広さと楽しさも何も知らなかった私にしては充分に

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手応え

間違えることを極端におそれる人が多いと聞くけれど、一度も間違えたこともなくどうして迷ったとき「自分にとって、より確かと思えるのはどっちか」に気づけるだろう?
とびきり賢い人も中にはいるけど、誰かの体験談を聞いてたって自分の感覚とは違うのだから、結局自分が「これでいい」と納得できるものに出会うためには、自分が転んだり、選び損ねてきた失敗から得るより確かなものはない気がする。
子育てをしながら思うのは、自分の子供だって「自分」ではないのだから同じ道筋などありはしないということ。私に役立った考え方やヒントが有効とは限らないどころか、むしろ余計なお世話でしかないこともあるだろうなぁと今からすでに感じます。

例えば力を尽くした結果、どうにもならない事態になって「もうやるしかない!」って状況にヤケっぱちで出る馬鹿力がある。ネガティブも使いようだと私は思っていて、落ちたとき私は浮上することより底につくのを待っている。その時間は自分の中に見落としてきたものや状況を観測するための貴重な時間だと思えばいいと今は思える。
底は見えないからこわくて、でもちゃんとあると知っている。自分の底だもの、そんな深くはないって(笑)一度底を見ればそこは知った場所になり、あとは浮上するよりないので好きなだけ沈んでいてもいい。人は浮くんです。意識的に「潜り続けようと努力」しない限りは、そうやってできていると水泳も習ったしダイビングも経験した私は知っている!私は感覚的思考ですけどね(笑)

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  • by ciel (しえる)

どちらも覚悟

久々に森川節を聞いた(読んだ)気がしたこのブログ記事
何について森川さんがそう感じて考えを書くに至ったのかはともかく、あぁ私が森川さんの声やお芝居のみならず生き方そのものに強く強く惹かれたのは、こういう真面目さと開拓精神だったなぁと今一度思い出させられました。
普段のトークや携わった作品のインタビューでは軽妙に、相手の聞きたいであろうことに上手く合わせつつ自分らしくピリッと味付けして言葉にする素晴らしいアピール力をお持ちの森川さんですけれど、根っこにブレない・譲れない芯があってこその、あの確かなお仕事ぶりなんだなぁとあらためて。
アクセルゼロの記事や以前特番で垣間見た熱血講師ぶりなど、他者への冷静で厳しい視線のようなものはむやみに見せず(同業者には見せたりもするのかな?)、あくまでブログや森川さんが作り出すステージを観るファンには、どこまでもストレスフリー(笑)
笑えるように、楽しく、そう配慮されていながら、ご本人はどこかとぼけて“柳に風”…パンダに笹?といった感じ。
そんな余裕に見える森川さんの安定感は、あらゆる困難に体当たりで挑んで、そこで得たもの全てを糧にしてきた経験値。積み重ねでしか出せない、果てしない時間がかたち作るものなんですよね。
身長とか体格とかじゃない(笑)大きなオーラを感じるのは、やはりこのゆるぎない情熱ゆえなんだなぁと、胸が熱くなりました。
いつも、森川さんの言葉は胸に火をつけてくれます。
声はとろけそうなのに

私も「論ずるに値しない」じゃなく、考えるきっかけをもらいました。
ずっと考え続けていたのだけれど、思うように言葉がまとまらず書き出す指がいつも止まってしまっていたことについて。ちょっと長くなりそうなので続きから書きます。

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  • by ciel (しえる)

姿は心の構え

願いが、ある朝起きたら夢のように叶っているなんてことはない。
どんなことでも目標に向かって進むということは冷たい風に当たりながら傷を負いながら続けることだ。いつからか、そんなひとつの覚悟を持ち、抱き合わせるように小さな希望を灯りにして歩いてきたような気がする。そんな風に言うと、「あなたはおとなしそうに見えて心の強い人だね」と言われることが多い。性格は顔に出ると思っている方なので、それは当たっているのだろうと思う。
なんとなく他人の評価というものは後から知ることの方を大きく捉えがちで、第一印象とイメージのギャップが大きければ大きいほど真実は後者にあると思いがちなのが不思議だなぁと感じていた。先入観の大きい人、または人の言うことをそっくり信じられる素直な人はそうなのだろうか?私はこれまで会ってきた人は、だいたいパッと見た瞬間の印象は仲良くなっても大きく変わったことがない。もちろん意外な一面や面白さは付き合うほどに出てくる楽しみはあるけれど、芯というか根っこの部分が揺らぐほど「そんな人だと思わなかった」と言うほどの残念感など持ったことがないのだ。
 

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  • by ciel (しえる)

君がいて見える景色



小さいひとが公園で見つけてきて、「お母さんにも好きなのあげる」とくれた四つ葉のクローバー。
去年こうして手渡されたとき、感動して押し花しおりにしたっけ。
私は今まで、四つ葉のクローバーを一度も見つけられたことがない。
そんなに探さなかったのかもしれないし、よく見ていなかったのかもしれない。
身体はだいぶ大きく、顔も少年らしくなってきたのに、相変わらず何をするにもおっとりで、急ぐってことを知らなくて、要領の悪い息子。でも、そんな彼だからこそ見つけられる幸せがあるんだね。
ざっくりと早足で生きてきた我が身を反省…しても性分はなかなか治らないんだけどねせめて、自分のやり方ばかり強いてつまらない分身を作ってしまわないよう、彼の生まれ持った魂のきれいなところを潰したりしませんようにと自分に祈る。
昨日は学校の帰り道、道に咲いたまま落ちていた(誰かに千切られたのだろうか)という白い花を大事そうにくれた。私が喜ぶと知っている、だからこの手に持って帰ろう、そう思ってもらえる尊さ。それもあるけれど、何より「一輪挿しに飾ろう?」と言う、名も知らぬ花を飾って眺めて、きれいだねと微笑む。あぁ、ここに、世界がある。そんな風に感じられる。

子供たちが成長するにつれ、出来るようになった分の期待を持ってしまうのか、摩擦も増える。まだまだ手のかかる年頃でもある。日々、これぐらいは自分でやって、っていうかいい加減覚えて!や、なんでこんなことも出来ないのよの繰り返し。知恵がついて、歯を磨いてないのに磨いたよ〜宿題やってないのに、今日ないよ〜(たまに素で忘れてる、もしくはそもそも持って帰るのを忘れてる)見え透いた嘘もつく。
下の娘はさらにお調子者で、まぁ色々ひどい腹が立つので割愛
ばかにしないでよねーっっっ(`Δ´)と心身ともにぐったりして凹むときもあるし、ばかにされてるとしたら身から出た錆よ…よよよと凹むどころかマリアナ海溝に潜ってしまうこともある。旅に出たいと逃げたくなる。
聞く人が聞けば「アンタはなんてダメな親だ!」とドン引かれそうだけれど、私は割と本気で、しょちゅうそんなことを考えている。家族の不在も大きいけれど、それは単に私の器の問題なのだとも思うし、親とて人の子。心に穴が開いているのを見つけたら塞いでやらなきゃならない。真摯に向き合おうとすればするほどに、見るに堪えないほど自分のダメなところに気づく。そうして、ほとんど100%、相手に怒っていることは自分側に何か解決しきれないまま抱えているものがあるとも。自分が越えていない壁、許していないこと、物分かりよく納得したフリで心では憎いと思っている現象。対等の気かよ!?というほど色んな話が出来るようになっても、まだまだ無垢な表情でこちらを真っ直ぐ見つめる眼差しを受け止めるたび、こんな純粋な(そりゃ彼らなりの策略はあるだろうが)魂に、こちらを苦しめようなどというものがあろうものか、美しいものを美しいと受け止めようとしないのは私じゃないかッ!と、熱い感じで改めざるを得ない。
ここ最近はきっと、そんな葛藤がダダ漏れで、ただでさえ子は親の心をシンパシーで感じているはず。まずい…幼い頃はパステル画までいかなくともせめて水彩画くらいのやさしい風景が似合うはずなのに、こんな劇画タッチなもっさい心象風景は弊害にしかならないのではと焦る。
それでも、まだベビーカーで一言も喋らない赤ん坊の頃と同じ景色を歩きながら、「今日は空が高いね」「お花もきれいだね」「もうコスモスが咲いてるよ」、そんな風に話したことを、今度は彼らが話して聞かせてくれる。それはただの刷り込みで、いつか忘れてしまうとしても。
私が知る世界の美しさを全部、君に。できれば渡したくないけど渡してしまうだろう醜さを包み込んでなお、君の世界がヒカリで溢れますように。君と私は違うから、時代だけじゃなく一人一人の道がそもそも違うから、私はこれから君の手をとっていちいち迷うだろう。混乱して、とっちらかって、格好悪いところばかり教えることになるのかもしれない。それでも、君たちと歩きたい。
情けない気持ちばかり募る夜。おやすみなさいで、また明日。

日々のお付き合いと拍手、ありがとうございます(*´ェ`*)
                          
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  • by ciel (しえる)

夏の陰



言葉にならないのか、言葉にしないのか。
行ったり来たり、行っては戻り、時間だけは戻らない日々が過ぎていく。
追われているのか、追いこんでいるのは自分なのか、わからないまま。
そろそろ少し先を見据えたくて、けれど目の前のことで今日も終わる。

いつも大事なことは、目の前を掠めて消える。
なくすという意味じゃなくて、
「あ、こういうことなのかも」
そう掴めそうな気がした瞬間が確かにあるのに、
あっというまに消えて、また霧の中というような。
いつも夢でも見ているような気持ちになる。



宙ぶらりんは楽じゃない。
もう何だって理屈はいいから、さっさと身の振り方を決めて楽になってしまえ、と囁くヘタレな自分の声もする。
でも「これでいい、そのまま歩こう」と確信に近い、諦めに似た声もする。
私は、私にしかなれないし、なりたくない。

“自分らしさ”ってよく言うけど、自分ばかりじゃ満たされない。
世のため人のためになんて恥ずかしくて言えないけど、与えたい時だってあるし、あたたかいものに包まれていたい。

見たい世界は道の先にあるものじゃなく
て、その瞬間ごとの景色の中にしかないのかもしれない。
だからいつも私たちは振り返った時にしか気づけない。
気がつけば、ちゃんとそこにあったはずの得難いものに。
なんて悲しく、オロカ。懲りたはずでも一度くらいじゃ学べない。
それでも諦められなくて、何度転んでも欲しがる可愛いいきもの。


こうしたいと思うことしか出来ない。
それが今を取り巻く世界と相いれることがないとしても、言い訳にしない。
どこまで行っても、自分がついてくる。
知らないふりをしていても、ぴったり離れない。

夏の強い陽射しは、いつも私を試す。
伸びる程に背負う影を足元に見せつけて、それでも立ち続けるかと問うように。
キラキラと反射する光より、私が目をこらしてしまうのは鬱蒼とした木々の、葉と葉の間にある、深い闇だ。
怖いのに目をそらせなくて、どこか安心するのは何故だろう。

悦びも、不安も、狂気も、憧れも、全部自分の中にある。
私はそれをいつか全部知りたい。
そして全部、手なずけたい。
もしかしたら、それが愛ってものに近づくことなのかも。

誰もが心のどこかに穴が開いていたりする。
埋められないと知っていても、違うぬくもりを欲しがる。
世界は厳しいけれど、優しさだってあるから、私はそっちを信じるよ。
闇を抱いて、光を目指すんだ。



                          
  • 深遠のしっぽ
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  • by ciel (しえる)

心に風が吹き、かかとに炎が燃えている



漫画コラボのプリッツの、ちはやふる。
私これ絶対はまるわ(((;゚Д゚)))と思って、まださわりしか読んでいないのだけど(はまったら大人買い一択の漫画バカなので時期をみている)ホントいいね…!!

「正々堂々とやって負けて かっこ悪いことあるかー!」

もしも、失敗することが何よりこわくて足がすくんで動けない若いひとが居たら、この言葉を渡してあげたい。なりふりかまわず夢中になれる何かを持てることはさいわい。どんなに悔しくても、転んで泣いても、痛みも喜びも全部自分のものだ。夢中になりきれない人ほど、おりこうぶって足を引っ張ろうとしたがる。
けれど、汗かき恥かき足掻き続ける姿に通りすがりに冷や水ぶっかけることしか出来ない人には決して得られないもの。一番確かで信頼できる糧が身体に心に根付いて残る。読んだり聞いたり見たりして頭脳で得る知識じゃなく、もがいて溺れながら無我夢中で掴んだもの。偶然のようで、それはちゃんと贈られるべくして贈られた、求めた者にだけ与えられるギフトなんだと「そのとき」が来れば、初めて知る。それは誰がくれる物より言葉より輝いて、決して消えたりはしない宝物になる。

あえてネガティブな言葉をはずして書くとネットの空気には合わないのか、自分はそこそこ頭がいいと思ってる人や自称・苦労人、もしくはネットの長老みたいな人たちが「結果が伴わなければ才能ないw頑張るだけ無駄なヤツもいる、こういうの真に受けると不幸ww」と鼻白んで意気揚々と書きこんでいるを見かける。きっと人に笑われたり、ダメだったら立ち直れないかもなんて大きく挫折しない道を選んで、上手く出来なそうなものは全力で避けてきたんだろう。じたばたしてる人を対岸から傍観することこそが安寧なのだろう。それとも自分が挫折したことに対して何か大義が必要なタイプだろうか。
けれど、それもいい。泥だらけになって見知らぬ道を切り拓きたいのか、歩きやすく安全だとわかっている道を進みたいのか、ただそれだけの違いなんだから。良し悪しなんて決めなくていい。自分は誰かじゃないし、誰かの正解が自分にとって悔いのない道とは限らない。
だから、どっちも放っておけばいいのになと心底思うわけで。違う道を選んで歩いてる人に親切ぶって、あるいは「年を取ればわかりますが」とか謎の説教(どんだけ上からだ)、わざわざ気を引こうとする神経が私には全くわからん(笑)相手を相当バカにしていないと意見なぞ見ず知らずの人に出来ないものだと思うんだが…だって年齢など大人になったら経験値を計る物差しにもならないとわかるはずなんだよ…。そもそも「あんたもいずれわかるさ」的に渋い台詞は、汚物の世話して育ててくれた親ぐらい恩のある人しか言えない台詞だと思う。つまりそこに深い深い愛情が存在しなければ迷惑にこそなれ、人のためになど微塵もなりはしないと知るべきかと。
人の人生どうこうより、自分の人生ちゃんとしようと毎日思い出すようにしている。人は忘れるし、調子にも乗りやすいから戒める(それは私だ)。自分のやるべき・やりたいことに一生懸命になってたら一日は一瞬だし、一週間は今さっきだし、一年だって昨日のことのよう。どうでもいいことに関わって野次ったり気落ちする暇、なくない?

小さなひとにも、いつか夢中になるものが出来たらいいなと思うけど、それは決して親が先回りして指し示すものじゃない。もちろん最初はどんなことも楽しめるように導いてあげることも必要だけど、その先は心からやりたい!と好きになれるものしか続かないもの。逆に下手でも楽しい!ってことは大事なことなんだと思う。
それなのに大人は勝手に、つまずいてる子を見て「向かないんじゃない?」なんて言ったりする。本当は上手く出来ない我が子を見ていたくない、自分と同じ失敗をしやしないかと不安になるから、そんなエゴかもしれないと気づかずに。
大人が出来ることでやるべきことは「世界には楽しいことが溢れてる」を見せて、証明してやることくらいしかない。やってもみないで、続けることを否定して何が才能。生まれて初めて、脆弱なりにも全力疾走してみてわかったことがある。
それは、続けられる人こそが才能の持ち主であること。
生まれ持った資質の差は否めなくとも、せっかくの原石も磨き切れずに消えたり腐ったりしていく才能のどれほどあることか。少なくとも、自分が気持ちをこめて積み重ねた分は光るんだから。
当然やみくもに続ければ良いのではなく、シビアに自分を見る目は必要不可欠。特に実力とか弱点を見つめ続けなくちゃいけない。それを知れば長所をどう生かして他をカバーすればいいのかわかる。それこそ当たり前のこと。けれど大事なこと。ご高説ぶる人ほど、この言うまでもないことをわかっていない気がする。どんな理屈こねても腹が据わってないと、何事も継続は容易じゃない。
夢という言葉は甘く使われがちだけど、日常だって決断が必要なのに、今出来ないことを出来るようにするのに覚悟がいらないわけがないでしょう?今のままの部屋から出ずに快適な室温と環境と右手におやつで、虹の橋を渡れるなんて、まさか夢にも思ってないはず。
必要なのは覚悟と、勝っても負けても自分に言い訳しない約束だけです。
そう言うと「見かけによらず強いんだね」と言われる。強くないです(笑)本当は、こわい。臆病だからこそ、何も見えないままでいられないから進むだけなんだけどな。ここに居てもこわい、苦しい、つらい。そう感じているなら、一歩だけ踏み出してみたら一歩分なにか見えるかもしれない。そこから景色が動くかもしれない。どうせこわいなら、たまには違う味をアイスクリーム指さすみたいに選んだっていい気がしない?
試してみたいなら作戦練って臆病なりのやり方で勝負してみれないい。気のすむまで負ければいい。大いに笑われたらいい。いや勝ってもいいんだけど(笑)でも負けなきゃわかんないことも多かったりするから無駄はない!エコですね…
やらずに年をとって「ホントはやりたかったんだけどさ〜」と誰も聞いてない場所で呟くより、たぶんスッとするよ。やり切ったなら「やっちゃったよねー!若気の至り!!」って失敗も笑えるよ。笑えるまで走ったらいいんだと、やっとわかったの私も割と最近ですし
その代り、誰にも、自分にも強制されずにしよう。走り出した意味を忘れず、もしくはちゃんと途中で見つけて。そういう向き合い方が出来れば、身体や心が壊れる前にちゃんと自分で気づける。間違えたら、ヤケっぱちになって意地を通すんじゃなく、きちんと自分と向き合って修正すればいいんだから。何度だって、やり直せばいいんだから。命があるうちにしか出来ないことを。
成功を世界に知らしめることより、知らない人に一目置かれることより、自分が掛け値なしで熱中できるものがある方がいい。それで暮らせたら、もう十分な人生じゃないかと思える。辿り着きたい場所が見えたら、転ぶことをおそれないで。
たくさん笑われて磨かれて頭下げたりもして、今日よりマシな明日がくる。こんなことを書く勇気をくれたかけがえのない仲間も、いつのまにか心の近くに居るよ。頭を冷やす水にも受け止める大地にも、互いの炎を燃やす風にもなれる。歩いた足跡は必ずどこかに残ってるから、大丈夫。
受け止めたすべてを燃料に代えて、心に風を、かかとに炎を。

☆タイトル引用:「放浪者のうた」ジョン・メイスフィールド


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  • by ciel (しえる)

背中から遠ざかっていくもの



昨日は一日寒くて暖房を上げたほどですが、午後から日が射して気温も少し回復。気まぐれに使うアアルトのタンブラーも北の海の色をしたシーブルーから、よりクリアなブルーへ。爽やかなレモンを美味しく感じたり、寒い寒いという軟弱な気持ちより身体は先に進みたいようです。
どんなに寒くても、もうダウンコートや毛糸の帽子は使いたくない…いや、着ている人もまだまだいるけど、出来るだけ早く「冬」を脱ぎたいのが北国の民の心境です。今日は洗車ついでに小さいひととドーナツを食べに出かけました(車検の特典で貰ったガソリンスタンドの洗車券♪それを待つ間のブレイク
なんというか…二人目(娘っこ)がお尻をつけて物を食べられないタイプだったので、どこにも行けない(迷惑になってないか、今時の親はうるさくさせて…と睨まれる、と気疲れして行く気力もなくなる)時期が長かったので、こんな風に穏やかに親子で何か食べに行けるまでに育ってくれたのだなぁ…なんて、しみじみ。
雪解け路面でずっと泥んこだった車がピカピカになったのを見たら、どこでもいいから走りたくなって、思いつくまま風の向くまま、ドライブすることにとはいえガソリンも高いしな〜(世知辛い)と、近場のホームセンターで自転車を見たり、植木を見たり、物置を物色したり…こんなことでも喜んでくれるうちの小さいひとたちはホント渋いと思うし、可愛いなと思う。

私の子育ては、将来こうなってほしいという夢や大きな計画もなく、どちらかというと「これはしないでほしい」という消去法で選んできた気がする。
受け身で「楽しませてもらう」を当たり前にしたくないというのもその一つで、お膳立てされた娯楽に慣れる前に「いま在る中でをどうやって楽しむか」を教えてきたつもりです。教えるといっても、まず先に自分が楽しむことに尽きて、言葉は楽しいという感情を伝えるシンプルな一言でいい気がする。いくら言葉を重ねても、親もホントは不本意で楽しいフリなんかしていたなら、実は何でも直感でお見通し(エスパーみたい)な子供という生き物には通じません。だから、本気で楽しむしかない。
ここはよかった探し職人の腕の見せ所で「もっとこうだったらよかったのに」より「こうでよかったよね」と、今という時間に賛辞を贈ってみる。すると、なんでもないはずの今が笑い合うことで、何だか愛しく思えて、そこからかけがえのない瞬間が生まれたりもすると、私は守り育んでいるはずの家族に教えてもらった気がします。
そんな風に育ってきた小さいひとたちは性格の違いはあれど概ね大らか。どちらかと言えば、真逆の環境で育った私の方が嫌な気分になったとき浮上できなかったり、ヒスを起こしたりしがちで面目ない限りです

毎年どんどん家が建ち並んで拓けて行く街並みを車窓から眺め、何となく隣の街まで走ってしまいました。何気なくつけたラジオからスガシカオさんの歌声が聴こえてきて、あぁ私はこのまま何処までもハンドルを握って走って行けそうだと思いました。
ふと、大好きな漫画「ハチミツとクローバー」の竹本くんを思い出していました。
“一度も後ろを振り向かずに ボクはどこまで走れるだろう”と、一度小さい頃に思ったように、そのまま走り出した竹本くんのことを。
この漫画は、出逢った時とうに大人になって(いたつもりで)、それ以前の自分なんて忘れてしまったような精一杯の澄まし顔で歩いていた私の心を揺さぶり、今まで何度も何度も読み返してきました。その度に誰にも触れられることはないと思っていた心の隠し扉の奥から水が溢れ出る…というおそろしい作品なのですが
この中では誰が主人公というよりそれぞれの背景がだんだん見えてくるにつれて、誰もに共感したり、デジャブをみたりして、もうたまらないわけです。ですが、私は森田さんという登場人物がどうしようもなく好きだったせいもあり、真逆ともいえる誰から見ても良い人で毒のない竹本くんの真っ直ぐさや素直さが眩しすぎたのですが。この頃よく思い出してかみしめるのは、竹本くんの台詞ばかり。
今日も車を走らせながら、何処までも走って行けると思いながら、そう思ったわけは、竹本くんが走り出してやっと思い出した「理由」と同じだな、と思いました。
よかったな、と静かに思えました。ちゃんと、私になれて。
少し前に聴いた曲に「自分を好きになる」という言葉を見つけて、そこにふと違和感を覚えたんです。なんか、昔はずっと自分が嫌いで、そう思う自分も嫌で、だとしたら自分を好きになれるようになるしかないって思ってた気がする。でも、いま違う答えを持っている自分がいる。もう「好きになる」とか考えなくてもいい。「なりたい自分」とかもいらない。私が、私でいま「よかった」と思えるなら、それがいい。そんな風に思って、そう思えたことに驚いて、うれしかった。
誰かから、あるいはみんなから見て「よかったね」が欲しかったわけじゃないのに、いつのまにか何のために走り続けて、自分の中の何と戦っているのかわからなくなったりもした。本当は、知っていたのに。自分が居心地よく笑えて、あたたかいと感じられて、ただそこに居るだけで満たされるような存在。なにかを誰かを愛することでしか生まれない感情。それを惜しみなく注ぎたかった。
いま、私は後ろに乗っているこの小さいひとたちが居るから、どこまでも行けると感じたられたんだな。そう思ったら、走り出したら止まれないということもなくなっていた。もしかしたら、これが自由ってやつなのか?と夕日に問いかけたいところで「お腹すいたー」という後部座席からブーイングを機に、サクッとUターンして家に帰ってたこ焼き食べましたとさ☆
そういえば我が愛しの心の恋人・スナフキンもムーミン谷という気に入りの場所を見つけても、冬が来ればやっぱり旅に出る。その時、彼も竹本くんと同じ気持ちを背中に感じるのだろうか。そのために旅立つのかな、なんて考えたりもしました。私は時にスナフキンにもなり、いまはただ春を待つムーミントロールなのかもしれない。
夜中テンションで書いちゃったけど、ブログはほぼ心の日記状態なので恥も書き捨て放置プレイ(爆)←私の使う(爆)は爆笑の爆ではなく爆発の爆です。
長い長い冬が終わるように小さな兆しが芽吹く春です。

                          
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